断末魔にあえぐこの会津藩を、我らが手で・・・介錯しようではござらぬか 【白虎隊 落城の賦】

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  • Опубликовано: 16 дек 2024

Комментарии • 8

  • @Googleユーザー-v5h
    @Googleユーザー-v5h 9 часов назад +2

    2:23
    ここの山川のリアクション
    「頼母に何を言っても無駄〜」と見えなくもないです。

    • @4BLOCKERS
      @4BLOCKERS 8 часов назад

      強硬派の最後の心の支えがついに折れた、名演です。

  • @シュン7958
    @シュン7958 10 часов назад +2

    0:25 梶原平馬(画面左)27歳。家老・家禄1000石。鎌倉御家人・梶原景時を祖とする。平馬は内藤介右衛門信順の次男で養子。容保側近として京都に随行。慶応2(1866)年、家老就任。妻は家老・山川大蔵の姉二葉だがこの頃には既に離縁して二葉と長男景清は山川家に戻っていた。萱野権兵衛→山川大蔵が軍事担当(総督)だったのに対して平馬は政務外交担当だった。維新後は斗南へ移るが、後に上京。東京で教育者の水野貞と再婚。北海道根室へ渡って晩年を過ごした。

  • @シュン7958
    @シュン7958 9 часов назад +1

    0:25 内藤介右衛門信節(画面右)29歳。家老・家禄1700石→2200石。家老・梶原平馬(画面左)は実弟。内藤家は武田四天王・内藤昌豊の名跡を継いだ内藤昌月(保科正俊三男)を祖としており西郷家同様に保科家に繋がる家中屈指の名門。若年寄を経て慶応2(1866)年に実弟平馬と揃って家老となる。白河城の攻防に敗れて再び失脚した筆頭家老・西郷頼母に代わって白河口総督、家老上席(2200石)となった。父で隠居の信順以下一族が若松城へは入らず菩提寺の「泰雲寺」にて集団自刃しており介右衛門も妻子を亡くした。維新後は斗南へ移り五戸で私塾を開いた。

  • @シュン7958
    @シュン7958 9 часов назад +1

    3:40 御宸翰を運んで来たのは浅羽忠之助。家禄100石。小姓頭として容保に近侍。鳥羽伏見に敗れて将軍慶喜の命で大坂城から落ちる際に容保から御宸翰を預かる。自刃した神保修理の後任として軍事奉行添役。維新後も容保の側を離れず謹慎先から日光東照宮(容保が宮司となった)まで生涯容保に近侍、容保の葬儀では太刀持ちを務めた。

  • @dsnmb6451
    @dsnmb6451 11 часов назад +3

    会津藩はまごうこと無き尊王

  • @ラプテプ
    @ラプテプ 11 часов назад

    一番の戦犯は慶喜だな。
    やり方が汚い。

  • @nattousenbei
    @nattousenbei 2 часа назад

    準主人公にも関わらずここまで無能に描けるとは、この脚本西郷頼母絶対に嫌いだろ。、まぁ史実が酷すぎて敵前逃亡をこうやってごまかすしかなかったのだが。なお、史実では宸翰は普通に容保が持ち続けていました。